記録と随想7: 因果帰属と市民生活 (910日)

 

前稿「記録と随想6」では、社会科学における「因果帰属」を、「社会科学の自然科学的契機」として、つまり (自然科学における実験ないし比較対照試験の論理を、実験や比較対照試験は実施できない社会科学とくに歴史的研究対象に転用する)思考実験」として、捉え返した。ところが、そうすると、「因果帰属」とは、自然科学のなんらかの部門で、実験や比較対照試験の訓練を受けて初めて修得され、社会科学の諸部門にも持ち越される「特別の技法」で、「一般市民の生活実践とは無縁の代物」とも解されかねない。他方、そうであれば、当の「思考実験」は、自然科学(あるいは社会科学)のなんらかの部門で、一定の「専門的」訓練を受けさえすれば「おのずと身につき」、「専門家」は「いつでも駆使でき」「じっさいに駆使している」とも見なされよう。

しかし、はたしてそうか。そこで、この問題を採り上げ、マックス・ヴェーバーにおける科学論の展開を顧みながら、多少考えてみたい。

 

ヴェーバーが「因果帰属」を主題とした方法論文献は、「文化科学の論理学の領域における批判的研究」[1]1906、以下「マイヤー論文」と略記)である。そこで、かれはまず、(「方法の論理学的定式化にかけては誤っている」として批判の槍玉に挙げる)古代史家エドゥアルト・マイヤーの「経験的モノグラフ」から、具体的研究実践における「因果帰属」の実例を (こちらは的確として) 引用し、その論理と手順をマイヤーに代わって解説して見せる。

すなわち、マイヤーは、「西洋における『世俗的で自由な』(ということはつまり、「祭司身分」による「教権制的」ないし「神政政治的」な制約に縛られない) 文化の開花-発展」という「結果」を、「マラトン戦におけるギリシャ勢の勝利」という歴史的「与件」に「因果帰属」した。そのさいマイヤーは、「かりにペルシャ勢が勝利し、『ギリシャ勢の勝利』という『与件』がなかったとすれば」と仮構し、「その場合には、ペルシャ帝国が、ユダヤその他の征服諸地域で、通例一般に採用し、実施したのと同じように、ギリシャでも(その萌芽はあった)土着の密儀や宗教を、『大衆馴致手段』[2]として温存-助勢したにちがいない」と推論する。そして、「そうなれば、『世俗的で自由な』文化は、ギリシャでも、ユダヤその他の被征服地域と同様、加勢された「祭司身分」の「教権制」によって窒息させられた『公算が高い』」。「ところが、じっさいにはそうならず、ギリシャの地に『世俗的で自由な文化』が花開き、(それが後世に継受され、キリスト教とともに、二支柱の一方ないし主要な対抗因-緊張因として)『ヨーロッパ文化』の発展に寄与した。とすれば、そのかぎりで、『ギリシャ勢の勝利』という『与件』は、『世俗的で自由な文化の開花-発展』という『結果』にたいする一『要因』として、相応の『因果的意義』を帯びていたことになろう」と結論する。

ヴェーバーによれば、マイヤーのこの論証は、「因果帰属」の論理に適っており、なにか具体的な「史実的知識」か「法則的知識」、あるいは双方によって、具体的に反証ないし反論され、具体的に覆されないかぎり、「妥当な因果帰属」として追認されなければならない。

 

ところで、「マイヤー論文」ではまだ、こうした「一般経験則」――すなわち、ペルシャ帝国の支配という一個別事例以外にも、夥しい類例群について、反復して「観察」され、共通の人間「動機」を「明証的に(ありありと)理解」もできる「一般的な経験の規則」――を、「人間のやることなすこと」すべての主要な領域にわたって、つとめて網羅的に探索し、「法則的知識」として系統立てて定式化-集成-体系化し、「社会学」と命名する、という方向性は示されていない。別言すれば、「社会学」が、「学知」の一領域・一「専門学科」として設定され、そうしたものとして意識的・方法的に開拓・展開・集成・整備・体系化されようとはしていない。むしろ、そうした「一般経験則」「法則的知識」は、通常市民常識のなかに埋もれていて、無意識裡に日常実践に織り込まれている、と見られ、「日常経験知」「一般経験則」ないし「通俗心理学的vulgärpsychologisch知識」とも呼ばれている[3]

 

それどころか、「因果帰属」そのものも、なにか「学知」に固有の「特別の技法」としてではなく、市民が日常的に、ただ無意識裡に駆使している思考法として、捉えられている。ヴェーバーは、マイヤーの古代史研究から実例を取り出したあと、ただちに、市民生活の日常茶飯事から、つぎの具体例を引いて解説する。すなわち、ある若い母親が、あるとき、家政婦と口喧嘩して苛立っていたばかりに、子どものちょっとした「悪さ」に我慢がならず、つい手荒い「ビンタ」を喰わせてしまった。ところが、折悪しくそこに、夫が帰宅した。するとかの女は、後悔して、咄嗟にこう弁明する。「いまはたまたま、別人と喧嘩して苛立っていたため、こんなことになってしまったいつものわたしなら、むしろ諄々と説諭していたろうに」と。つまり、かの女は、かの女の「恒常的習癖」にかんする夫の「日常経験知」に訴え、「ビンタ」を、「別人との口喧嘩」という異例の与件から生じた偶発的連関」に帰し、さもなければ「心にしみ通る説諭」という (「日常経験知」「一般経験則」に適う)適合的連関」が生じていたにちがいないと、「因果帰属」の論理を使って主張した、というわけである。

 

さて、この一件(というよりも、ヴェーバーが、どんな抽象命題にも、ただちにこうした挿話を添えて、読者の理解を助けるスタンス)は、わたしたちが、ヴェーバーの社会科学を、どう引き継ぎ、どう活かしていくべきか、という問題に、ある方向を示唆しているように思われる。すなわち、社会科学(というよりも学問一般)を、「学知」に限定して、市民の日常生活や市民運動から疎隔-屹立するのではなく、むしろ、市民としての常識や思考法を深化拡張して、いっそう自覚的に駆使していくため、その媒体・一助として「学知」・「専門知」も活かそう、という方向である。ヴェーバーが、「マイヤー論文」以降、「法則的知識」を「社会学」に体系化していくのも、一「専門学科」として体裁を整えようとするからではなく、逆に、「学知」を市民生活とりわけ「責任倫理」的実践に、よりよく活かそうとするからであり、まさにそうした方向に沿う歩みの一環である。その方向を見定めることはまた、ヴェーバーが働き盛りの急逝時(1920)に構想していた「比較歴史社会学」を、その潜勢ともども汲み出して引き継ぐためにも、必要であろう。[910日記、つづく]

 



[1] この論文の大意は、本ホーム・ページ2014年欄「マックス・ヴェーバーにおける『歴史-文化科学方法論』の意義――佐々木力氏の質問に答えて117日)」に要約されている。

[2] この「大衆馴致手段Massendomestikationsmittel」という術語は、「マイヤー論文」ではまだ使われていない。古代ペルシャ帝国のように広大な版図を「征服」した大王は、通例、圧倒的多数の被征服民大衆による野放図な叛乱はおそれ、その防止のため、被征服地の「宗教」を絶滅せず、「政治団体」を「武装解除entmilitarisieren」・「脱政治化entpolitisieren」して、局地的な「教団」(宗教的「ゲマインデ」=「ゲゼルシャフト結成に媒介されたゲマインシャフト」) に再編成し、被征服民「大衆の飼い馴らし・家畜化Domestikation」に利用する。「征服者」のこうした類型的「動機」に発する類型的「宗教政策」による類型的「教団形成」の一典型事例が、ペルシャの総督ネヘミヤの統制下・祭司エズラの指揮下に、バビロン捕囚からエルサレムに「帰還」したユダヤ教「教団」である。後に、『経済と社会』「旧稿」中の「宗教社会学」章 (1914年にかけて執筆) では、「宗教」の社会的規定関係と社会的作用の両面にわたって、この種の類型群が、普遍史的に探索され、体系的な「決疑論(カタログ)」に編成される。

[3] ヴェーバーは、「倫理論文」(初版)と同年に発表した「客観性論文」(1904) では、「社会科学」を「現実科学」と規定し、みずから「社会科学者」「社会経済学者」「歴史家」と名乗り出ていた。「社会学」は別人の営みと見て、「隣接科学のひとつ」に位置づけ、『社会科学・社会政策論叢』の「書評」欄で、その動向を追っていきたい、と述べている。

「客観性論文」ではまた、「社会科学」研究の段取りが、基礎的「予備研究」、対象の「特性把握」、(当の特性の、特定の先行与件特性への)「因果帰属」、「未来予知」に四分され、③が、「現実科学」としての「社会科学」の主要課題として、強調されている。ただ、そのさい、「歴史家が的確な因果帰属に到達するためには」「歴史家個人生活経験によって培われ、方法的に鍛えられた想像力」が「必要不可欠」で、それに加えて「どの程度、個別諸科学の援助に頼るか」「日常経験からえられる因果結合の規則性を『法則』として定式化しておくことが、意味をもつかどうか」は、「ケース・バイ・ケースの『合目的性』問題である」と見なされている (WL: 179; 富永・立野訳: 89-91)。そこでは「因果帰属」の論理が、各所で前提とされてはいても、主題としては採り上げられず、「マイヤー論文」(1906) に留保されている。