記録と随想 5: 台風 10 号の迷走に思う――科学の権能と科学者の責任9 1日)

 

   今夏、8 月下旬、どういうわけか、台風 11 号が北に去った後に、9 号が遅れてやってきた。10 号はどうしたのか、と気がかりで、気象情報に注目していると、八丈島の南から、進路を南西に転じて、沖縄に接近。東シナ海に抜けるのかと思っていると、いったん南下して U ターン、発達しながら北東に進み、房総半島に上陸して北進。11 号、9 号につづいて、東北と北海道に大雨を降らせ、未曾有の洪水と土砂災害をもたらした。「予想外の動き」「前例のない事態」という。

そういえば、この春の熊本地震も、思いがけない時に、予期しない形で、突発した。報道は途絶えたが、まだ余震があるという。かりにこの地震が、もう少し南、川内原発を襲っていたら、どうなったか。鹿児島県民が不安を覚え、知事が運転停止を申し入れるのも当然であろう。ところが、九州電力は、いちはやく「熊本地震の影響はない」と発表し、稼働をつづけるという。電力業界の利害を優先し、「ここで運転を停止したら、全国の原発をつぎつぎに止めなければならなくなる」と唱えている[1]

さて、今回の台風10号や熊本地震と同等ないしそれ以上の自然災害が、いつなんどき、どこを襲うかは、今回と同じように、予測はできない。かりに「原発列島」ともいうべき日本のどこかで、自然災害にともなう原発事故が起きたら、東京電力福島第一と同じく、炉心のメルトダウンと建屋爆発で止まる僥倖[2]に、ふたたび恵まれるという保障はない。格納容器が破裂し、高濃度の放射能が広範囲に飛散し、汚染による破滅をもたらすおそれなしとしない。

そのように、「特異技術」としての原発は、「急性の随伴結果」として事故を起こせば、「通常技術」とは違って[3]、取り返しがつかない。事故が起きなくとも、その設置・原料の採掘-精製-輸送・運転・補修・維持のため、かえって化石燃料の消費を早める。そのうえ、「慢性の随伴結果」として、処理不可能な放射性廃棄物を排出しつづけ、末永く後続世代に累をおよぼす。

とすれば、急性と慢性、両様の「随伴結果」の予想からは、翻って、原発によるエネルギー供給という「目的」自体の「意義」が問い返され、再生可能なエネルギーによる代替と、それにともなうライフ・スタイルの変革の範囲と方途が、模索されよう。そのうえで、人間常識にしたがい、原発の廃絶が決定されたならば、廃棄工程にも予想される両様の「随伴結果」による犠牲を、最小限にくい止める考案と設計が必要になろう。こうした一連の問いに答えて、「科学の権能」(①所定の「目的」にたいする「手段」の適合度の検証、②当の「手段」の採用にともなう「随伴結果」の予測、③「目的」そのものの「意味連関」の解明と論理的整合性の検証)を活かすことこそ、すべての科学者の責任ではないか。なるほど、台風にかんする気象学的研究を進め、予想されるコースの範囲を狭め、確度も高めること、また、自然災害にそなえて避難訓練を積むことも、必要かつ重要ではある。しかし、もっぱらそちらに関心を奪われ、「そのうちになんとかなろう」と、原発の危険に目を背けてはならない。台風 10 号の迷走と熊本地震の突発は、311 東日本大震災の教訓の風化に警鐘を鳴らしている。[関連記事として「記録と随想 6: 台風10号の迷走に思う(つづき)――自然科学と社会科学、あるいは社会科学の自然科学的契機96日)」を別掲]   

 

 



[1]ちなみに、この「ドミノ理論」は、1960代、アメリカ政府がベトナム戦争を正当化し、東大文学部教授会有志40名が、事実誤認にもとづく「文処分」の撤回に反対したときに持ち出した論法である。問題の当事者が、問題事象の広汎にわたる継起・波及を仄めかして、同類者(電力業界・「自由陣営」・東大教員)や近視眼的受益者の既得利害と憂慮を触発し、問われた問題そのものの直視と内容ある応答は回避する「集団的無責任」の常套手段である。

[2]この点については、本ホーム・ページに収載の「記録と随想 2: 東日本に生きている僥倖――福島第一原発二号機は、いかにして格納容器爆発を免れたか」(4 8 )を参照されたい。   

[3] 「特異技術」と「通常技術」の区別については、上掲「記録と随想 2」に付録した拙稿「ヴェーバーの科学論ほか再考――福島原発事故を契機に」で論じている。