『宇井純セレクション』全三巻の刊行に寄せて――逝去八年後の追悼

2014101日 折原浩

 

 

宇井紀子様

 

拝啓

 

この夏はずっと異常気象でしたが、ようやく秋めいてはまいりました。

 

過日には、藤林泰・宮内泰介・友澤悠季編『宇井純セレクション❶ 原点としての水俣病』(2014731日、新泉社刊、408ps.)、同編『宇井純セレクション❷ 公害に第三者はない』(381ps.)、同編『宇井純セレクション❸ 加害者からの出発』(385ps.) をご恵送いただき、まことにありがとうございました。

厚く御礼申し上げます。

 

まずは、宇井さんの遺志を受け継いだ後続世代の有志の方々により、宇井さんの発言と論考が、このように読みやすく集大成され、いまの若い人たちが、まとまって宇井さんの主張に接し、その遺志を引き継いでいく条件が整えられましたことに、ほぼ同時代を生き、反大学・反公害・反原発の原則を共有してきた一後輩として、ご同慶の至りです。

いつぞや、2006年のご葬儀のときにお目にかかってから、八年もの月日が経ってしまったわけですが、奥様はじめ、この事業を完遂された関係者の、この間のご努力に、満腔の敬意を表させていただきます。

 

ここに収録されている宇井さんの発言や論考は、かなりの部分、発表当時に拝聴、拝読して、深い感銘を受け、たいへん啓発され、大いに激励されたものばかりです。しかし、それらが、このように系統的に集められましたので、今回初めて、まとめて通読することができました。そうしますと、宇井さんの、1969年当時からの、筋の通った、歯切れよく、力強く、粘り強い活躍ぶりが、彷彿と蘇り、老生もこの水脈に連なり、後続世代に引き継ぐ責任の一端を担わなければならない、と改めて痛感いたします。

 

 

さて、小生も、1969年、東大当局 (加藤一郎「委任独裁」執行部) による安田講堂への機動隊導入に抗議して、授業再開を拒否し、特別弁護人として「東大闘争裁判(じつは東大裁判)」に加わり、駒場で有志とともに「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」を開設し、1972年秋に授業を再開して教授会に復帰した後にも、「公開自主講座『人間-社会論』」を主宰して、本郷の宇井さんの「自主講座『公害原論』」「自主講座『大学論』」と、高橋晄正さんの「自主講座『生存基盤原論』」と連携して動くように、極力つとめてまいりました。駒場ではちょうど、機動隊再導入後の「正常化」にともない、『セレクション❶』のpp. 281, 367-69で言及されている例のグループ (中曽根政権とつるんだ「学生運動崩れ」) が、政治勢力としてのし上がってきた状況で、教授会復帰後の闘争継続には相当難儀いたしました。しかし、駒場の「連続シンポジウム」や「公開自主講座」を機縁に、そういう「反動の流れに抗する」志に目覚めた学生たちが、本郷に進学してからも、「反動の流れに足を掬われないように」、宇井さんや高橋さんの自主講座に出て行くように、と勧めていました。他方、例のグループは、ある人事問題を契機に、教授会内の論争に破れて辞めていきました(その経緯については、当時の政治的力関係とマス・コミの取材不足にもとづく類型的な誤解が、いまなお流布していますので、そのうち、小生側からの論証を公表して、真相を明らかにするつもりです)。

 

大略そのように、宇井さんと小生は、1969以後、原則的には共に闘ってきましたし、大学闘争と市民運動との連携を目指して、双方の狭間に身をおいてきた点でも、共通でした。しかし、性格の強さ、運動と学問との力量、視野の広さ、企画の的確さ、などにかけて、宇井さんの足元にも及ばなかったことはひとまずおくとして、闘いのスタイルに違いがあったことも、事実です。そして、そういう違いは、今後の市民運動にも、また(起きるとすれば)大学闘争にも、形を変えて再生産されると予想されますので、そのさい「違いが敵対へ」と拡大はしないように、むしろ、違いを認め合った寛容と相互豊饒化に向けて止揚されるようにと祈念し、以下、小生の反省を書き綴って、『コレクション』三部作完成へのお祝いに代えさせていただきます。

 

1968年春から夏にかけて、学生の問いかけが厳しくなり、応答を迫られるようになったとき、小生は、「幸か不幸か」(という意味は、追々、明らかにしていきますが)すでに教授会メンバーとなってしまっておりました。そのため、学内で学生に向けて、あるいは一般紙誌ないしジャーナリズム上で、何か意見を表明する場合、内容が何であれ、予め教授会で発言することが、フェア・プレーの原則からも、意見表明の有効性を確保するためにも、要求されました。そうなりますと、教授会の議論で、多数派と小生との意見が対立するようになればなるほど、その「教授会発言先行義務」が、小生にとって重荷となり、制約ともなりました。

発言内容につきましても、たとえば、争点の医・文処分について、全共闘の学生側には、「処分する教授会が加害者、処分される学生は被害者」と「白黒に単純化して」主張する傾向がありました。しかし、教授会で、学生のそういう主張に同調して発言したのでは、とうてい説得力をもちえません。そこでやはり、出発点としては「第三者」(小生は双方の「狭間」に立つ「マージナル・マン」と自己規定しておりましたが)の立場に立ち、「教授会メンバーは、少なくとも建前としては科学者であろう」「つねづね『理性の府』の住人と称している」という建前を前提として受け入れ、教授会側-学生側、双方の主張を、甲説-乙説として、双方から公正に聴取ないし文献調査し、その具体的内容を比較対照し、どちらに理があるか、具体的に判別して、理にしたがうように要請する、という手順を踏むほかはありません。ただ、そうできれば、一定の説得力はもちうるのではないか、と想定して、じっさいにもそうしたのです。すると、東大の場合、医処分ばかりでなく、文処分も、事実誤認にもとづく冤罪処分と判明しました。その段階で、別の学部ではあれ、そうした処分を追認してきた一教授会メンバーとして、自分の「加害者」性を自覚し、以後、その自覚のうえに立って、行動しようとつとめました。すなわち、医・文処分問題という学内の具体的な争点につき、教授会メンバーとしては「不利」「不都合」な、そういう事実を具体的に確かめ、論証し、パンフレットを作成して学内の「科学者」に議論を呼びかけたわけです。しかし、ほとんど応答がなく、反論は寄せられませんでした。そうなって初めて、教授会メンバーは「第三者を装う加害者」である、と言い切れるようになりました。

他方、そうしながら、ではなぜ、事実誤認を犯したのか、事実認識が曖昧なまま処分を急いだのか、と問うていきますと、そうした科学的過誤の政治・社会的背景として初めて、(学生側のいう)「国大協・自主規制路線」が、浮かび上がってきましたし、位置づけられました。すなわち、「60年安保闘争」から権力側なりに教訓を学んだ池田勇人・自民党政権が、「大学管理法」制定の企図を公表し、これにたいして、中山伊知郎・東畑精一・有沢広巳といった学界長老が「とりなし」に入ったという事実は、早くから報道されて周知のこととなっていました。池田政権が、この「とりなし」に応じて、「大学管理法」の国会上程見合わせ、その代わりに、権力側の「意図」を大学当局が「先取り」「代行」し、学生にたいする処分の厳正化・強化、大学構内への機動隊導入にたいする抵抗感の排除などを、目立たない形で「準備」し始めた「であろう」ことは、事態の推移を見守っていた者には、容易に「想像」はされました。それを受けて、東大当局が、「処分」と「機動隊導入」を、そそのかされ、貫徹を迫られた「であろう」し、医・文教授会の事実誤認・冤罪処分はまさに「その結果であろう」と、因果関係客観的可能性」は推定できますが、確定的事実の証拠を掴むことは、「官僚制の秘密主義」の壁に遮られて、できません。文部省・大学事務局はもとより、大学の学部長会議や評議会も、議事録を教授会メンバーにさえ公開しません。ですから、どうしても大胆に断定はくだせず、「多分そうだろう」「とも考えられる」という曖昧で仮説的な言い方(「客観的可能性判断」)しかできません。そうせずに、大胆な、あるいは断定的な言い方をしますと、「事実無視」「論証欠如」「独断的」「イデオロギー的」「自己絶対化」といった、先方からの非難が優勢となり、言説内容にかかわる議論は回避され、理性的議論が説得力をもたなくなってしまうのです。

「大学あるいは大学教員の実態とはそういうものだ」と認識・自己認識して、その前提のうえにものをいい、ものごとを処理すれば、それはそれでいいようなものですが(最近の大学は、そうなってきていますが)、当時は当局ないし教員のほうが、そういう実態を見据えずに、あるいはそれを隠蔽して、「大学は理性の府」などと抽象的に「自己正当化」し、大学秩序の「正当性」を主張し、「紛争」の責任を相手方に転嫁しようとしました。そのために学生は、「何いってんだ」と苛立ち、「そんな大学なら『解体』するしかない」と、抽象的にラディカルな主張に走りました。それにともない、学生も学生で、学内処分の事実関係などは「些細なこと」「いまさらそんなことを議論しても始まらない」「処分権限を握る教授会を『解体』するのみだ」と声を荒らげ、教員と同じく、およそ事実関係には関心を向けず、議論にも応じなくなりました。むしろ、華々しいイギオロギー主張と「ゲバ棒」合戦が優勢となり、つまり政治運動としては尖鋭化し、その挙げ句、国家権力の暴力装置によって武装解除されるか、「内ゲバ」で自滅するか、どちらかしかなくなってしまいました。「そこまではついていけない」と察知し、五月雨式に「闘争から降りた」「良識ある」大部分は、(うわべはともかく、実質は旧態依然の、ないしはいっそう保守・反動化した)大学の旧秩序に舞い戻り、日常性に馴染んで、徐々に批判性を失っていきました。

他方、全国の諸大学に「飛び火」した紛争では、議論の蓄積なしに、いきなり「日大-、東大闘争の地平を越えて」というスローガンが掲げられ、それだけ「大学本部のバリケード封鎖」その他、「戦術のエスカレーション」というよりも「戦術の『一人歩き』」に走りました。「バリケード封鎖はしてみたものの、なかで何をすればいいのか、分からない」「日常を持ちこたえられない」という実態が大部分でした。

 

以上が、「196869年東大紛争」という(大学にとって)「政治の季節」が、ひとサイクルを終え、「学問の季節」の「日常性」に戻る経過を、ごく大まかに捉えた、一当事者の総括です。

小生は、そうした「後退-壊滅局面」のなかで、事実関係の確認と理性的な議論に戻って、日常的な闘いを継続し、傷ついた学生たちの再起を介助すると同時に、「後退-壊滅」とともに忘れ去られようとする「第一次東大闘争」の意味意義を、後続世代に伝え、できれば「第二次大学闘争」を触発する「よすが」「媒体」にもなろうと、「裁判闘争」(『東京大学――近代知性の病像』1973、三一書房刊、参照)や「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」、あるいはさらに「公開自主講座『人間-社会論』」など、授業再開・教授会復帰後の(一教員としての裁量権の枠内に縮小した)闘いの持続をとおして、努力してきたつもりです。ただ、当初から、上記のような「一教授会メンバーとしての制約」を被っていました。

その局面で、外国から帰国され、「一足遅れて」(ということは、批判的な距離をとることができて)第一次東大闘争に加わられた宇井さんは、水俣病問題という(近代工業文明の岩盤に突き刺さる、したがって「近代」を根底から問うことのできる)はるかに重い現実への関与と沈潜を原点とし、他方、助手という「自由な」(ということは、「教授会メンバーの制約」を免れている)立場をフルに活用し、まばゆいばかりの活躍を開始されました。そして、壊滅に近い大学闘争を反公害闘争に媒介していくうえで、大きな役割を果たされたのです。当時、大学と大学闘争に見切りをつけた良質の学生-院生は、反公害闘争に、それもなんらかの個別問題と個別の住民運動に持続的にかかわる形で、活路を見いだしていきました。

なるほど、公害問題は、いまでも根本的に解決されてはいません。しかし、1970代初頭には、「『公害』や『環境』を口にするのは『一部の過激派』」という風潮でしたが、それがいまでは「だれもが問題にできる」ようになり、いわば「一定の市民権」が獲得されました。いまから振り返ると「しごく当然」のようにも見えますが、この差異はやはり大きいと思われます。

公害問題をめぐる世論のそうした推移は、もとより、水俣病の患者さんをはじめとする被害者の、どうあがいても逃れられない日常的痛苦とこの窮状を脱しようとする必然の運動の蓄積があったからこそです。しかし、患者さん自身の重い被害事実とその加害者・加害責任が、広く知られ、世論の批判にさらされるようになるにつけては、宇井さんの貢献が多大でした。実情を知悉して、重い事実を加害者につきつけ、(東大工学部教員という同僚たちも含む)「第三者」を装う者たちの欺瞞性を、しばしば実名で暴露し、歯に衣着せず、切れ味鋭くものをいい、他方、公害の事実を、ジャーナリズムをとおして周知させ、問題を国際的にも訴え、広げていく、宇井さんの、逞しくも柔軟な実践的啓蒙活動とその説得力が、かりになかったとすれば、運動は困難を抱えたまま、世論の注目を浴びず、支持も乏しいままに、ずっと停滞したか、別の方向に歪められたかもしれません。

小生は、「一足遅れて飛び込んできた」宇井さんのまばゆいばかりの活躍に、しばしば戸惑いも感じました。しかし、それだけに、「風前の灯火」だった大学闘争を、反公害闘争に媒介して、継承を可能とし、実現した、宇井さんの力量と貢献には、脱帽するほかはありませんでした。宇井さんのそうした活躍を支えた強固な性格、運動と学問における力量と自信、社会科学と国際関係におよぶ広い視野と識見、的確な企画力とリーダーシップ、などを、評価しておりました。

 

他面、ただ一点、歯切れのよい論法と、それゆえジャーナリズムを介して世論に与えるインパクトと説得力という大きな長所とは裏腹の「短所」として、直観的判断の「大まかさ」、ときに「甘さ」が、危惧されました。ただしそれは、小生のような「些事拘泥」論者が、限定的批判をつうじて相互補完に寄与しなければならない問題点と感得されていました。たとえば、宇井さんは、「公害原論」の開設を、難色を示す工学部当局にかけあって認めさせた (その点にかぎっては宇井さんにとって「好都合」だった) 加藤一郎氏と、以前、川島武宜氏らも加えて結成された「公害研究会」で同席した経験に触れられ、その好印象から一足飛びに、「法学部ではともかく論争ができる」から「工学部の議論より客観的」と評価されています。その加藤一郎氏が総長代行になったからには「学生の運動は終わったな」という感想も漏らされています (『セレクション❶』pp. 364-66)

さて、小生も、加藤一郎氏の「力量と度胸」は相当なものと思いますし、かれの総長時代に視覚障害者の受験が認められ、入学者にしかるべき便宜がはかられた、というような功績の数々を評価するにやぶさかではありません。しかし、その「力量と度胸」が、主としてはどの方向に発揮されるのか、が問題ですし、「論争」が、宇井さんも加えて自由に結成された「公害研究会」ではともかく、法学部内でもなされるのかどうか、この点が肝心です。いまは系統的に論証する余裕がなく、例証ですませますが、196263年に「大管法」問題について学内論議が盛んになったとき、当時の法学部長が、「大管法」案に反対は反対でも、「大学の講座とは家族のようなもので、家風に合わない人が、外部からむりやり押し込まれたのでは、やっていけない」という趣旨の所見を公表したことがあります。ところがこのとき、『日本社会の家族的構成』や『現代政治の思想と行動』の著者たちが、異論を唱えて「法学部内で論争した」という話は聞きませんでした。当時、小生は社会学の院生でしたが、この件を契機に、「学問の自由」「大学の自治」とは、大学内にすでに確立している慣行を、外部の干渉から守る、というのではなく、少なくともそれだけではなく、まさに講座制という大学内の制度とそのなかで不断に培われる精神をこそ、現場で問題として克服・自己克服していくことだ、というふうに捉えなおしました。また、これは「学内の論争」ではあっても「法学部内」ではないのですが、宇井さんがお留守の19686月に、医処分の責任者・豊川行平医学部長が、「『疑わしきは罰せず』とは英国法の常識で、わが東大医学部はそんな法理には支配されん」(趣旨) と豪語したとき、驚いた荒瀬豊・新聞研究所助教授が『東大新聞』に投稿して抗議し、法学部教員にも専門家としての発言を求めましたが、法学部教員は誰ひとり発言せず、沈黙を通しました。

また、小生の長年の経験でも、駒場時代には清新な活動家で、よく付き合った若者が、法学部に進学してスタッフともなると、よくて「学知」中心の「保身-出世第一主義者academic careerist」、悪くすると、秩序維持のために「半ば善意で」反動的な役割を演ずるようにもなります。例のグループのような「学生運動崩れ」の縮小再生産です。こういう連中の教育を受けた卒業生の行く末を思うと、東大法学部という学内 (-外) 権力の牙城は、まさに宇井さんにも評価されるような性格をそなえていればこそ恐ろしい、と思わずにはいられません。以上はもとより、宇井発言を補完すべき論点で、こういったからとて、宇井さんもおそらく反対はなさらないでしょう。

 

さて、宇井さんは、反公害住民運動と大学闘争との狭間に身を置いて、双方の相互媒介と統合を目指し、ジャーナリズムへの応接も厭わず、粉骨砕身されました。そういうある意味の「スター」ないし「有名人」に、いろいろな誹謗中傷が浴びせられるのは「世の常」で、そんなものをいちいち問題にしていたら、きりがありません。ただ一点、宇井さんについて、「『勝てる運動』しか支援しない」「非専門家の住民を『見下して』いる」「研究のために運動を『利用』している」という「批判」が、ごく近くから聞こえてくることがあります。これだけは、ここで採り上げて反論しておきましょう。というのも、そうした「批判」は、一種構造的な源泉から派生し、ここで切開して後難を絶つことが、ぜひとも必要かつ重要と思われるからです。

反公害住民運動と大学闘争との狭間に身を置く「マージナル・マン」は、住民と大学、双方から十字砲火」を浴びます。そのただなかで、個人としての自立・自律を堅持することは、容易ではありません。大学側からの「砲火」に屈した人は、「過同調overconformity」として「学者的保身-出世第一主義academic careerism」に走り、「学生運動崩れ」の後釜にも座るでしょう(ちなみに、「過同調」とは、相対立する二つの社会集団の境界を横切ろうとする個人にしばしば起きる類型的現象で、一昔前には、「ブルジョアジー」出身の「プロレタリア」革命家が、生粋の「プロレタリア」以上に「プロレタリア的」「革命的」に振る舞うのはなぜか、という問題をめぐって議論されたものでした)。ここでは逆に、住民運動側からの「砲火」にたいする「過同調」として、何が起きるか、考えてみましょう。あえてタブーを覆し、「理念型」を構成してみますと、ある人々は、住民「大衆」(というのも、「住民」は一枚岩ではなく、「在野の知識人」も「在野の専門家」もいるからです) からの「反知識人・反知性主義」の「砲火」に、過度に鋭敏に反応し、「知性主義」や「専門性」にたいする「大衆」の嫌悪感情を「代弁」し、ときとして「道徳主義的に誇張」し、(「知性主義」や「専門性」を限定的に重視している)運動仲間指導者ことさら貶めることで、住民「大衆」に「身の証」を立て、「仲間入り」しようとします。屈折した「大衆迎合populism」です。そこでは、当面の、あるいは同じ類型の、体制側の開発計画を阻止するという否定的運動にとっての「勝敗」と「有効性」が、最優先され、「科学性」は問わない、あるいは、「科学者」や「院生」はことごとく「御用学者」か「学会で認められる論文を書くことしか念頭にない『保身-出世第一主義者』」かのどちらか、と決めつけられます。そういう偏狭で政治主義的な「運動プラグマティズム」が、前景に現れ、同様の「過同調」に陥った「活動家」や出版社には、そのかぎりで浸透します。

ところで、あらゆる生活領域に浸透していく「合理化」は、必然的に「専門化」をともない、どんな住民「大衆」も、自分が日常的に利用してはいる製品の基礎とされた科学的・合理的原理からは、いよいよ疎隔されていきます。そうした原理の技術的応用にともなう有害な作用・副作用を「公害」として身に被っても、当の技術を、自分で合理的に制御することはできません。この隘路を打開するには、当の科学的・合理的原理に精通し、合理的制御のすべを心得た(あるいは制御の方途を合理的に考えることのできる)、実力ある専門家の実効ある助言と協力が必要とされます。ところが、みずからそういう実力ある専門家となるには、相応の訓練が必要とされ、これは一朝一夕には成就されません。「問題中心的専門家」も、そこに総合されるべき個々の方法の会得には、そうしたものを提供できる「方法中心的専門」施設と、その施設にある期間通っての訓練自己訓練が必要とされましょう。

 

さて、宇井さん、高橋晄正さん、それに反原発運動の高木仁三郎さん、山口幸夫さんら、大学闘争を反公害・反原発運動に媒介したいわば「第一世代」は、既成の大学ですでに教養を修得し、専門的訓練を受け、(宇井さんと高木さんは) いったんは企業に就職して実験室や工場の現場経験も積み、専門の研究者として自立し、住民運動からの要請に応じて実効ある助言と協力をなしうる実力をそなえていました。ところが、当時、全国各地の工場や鉱山その他では、公害や薬害が多発-激発し、あるいは明るみに出て、反公害-反薬害の住民運動も簇生し、数少ない「第一世代」には、協力要請が殺到しました。それらに逐一誠実に対応して、要請に応えようとした宇井さんらの繁忙は、想像を絶するものだったでしょう。すべてに対応していたら、それこそ多忙死・過労死を免れられません。そこでどうしても、なんらかの規準を立て、「協力する運動」と「そうしたくともできない運動」とを分けるほかはなかったはずです。ところで、宇井さんらの周囲に集まった若者のなかには、敬愛する指導者のそうした多忙と窮境をよく理解して、献身的に協力しようとする頼もしい人が大勢いました。しかし、なかには自己中心・自己本位で、あるいは「自分が『する』ように汝も『せよ』」という「共同体」倫理を持ち込んでは「個人的なこと」で煩わせる一方、やむをえない協力拒否をことさら採り上げて道徳主義的に非難する、特異な類型に属する人の迷い込みも、まま見かけられました。

また、「第一世代」が偉かったと思うのは、当面の勝利を目指して住民運動に協力、尽力しながらも、その渦中で教育者としても振る舞い、後継者養成制度として「公開講座」や「市民学校」を開設すると同時にひとりひとりの学生-院生参加者に、「人を見て法を説く」かのように、実力ある専門家に育成する個別の指導を絶やさなかったことです。そうした総過程の一環として、ある特定の学生類型にかぎっては「君たちはまだ、かくかくの実力に乏しいから、いまは闘争-運動現場に行くよりも、大学に残って実験・実習・論文執筆に専念したまえ」と率直に助言したとしても、不思議ではありません。そういう個別ないし類型的な事例をなにか過当に一般化し、「宇井さんは、住民運動よりも専門教育を重視し、学生・院生を使って自分の専門的業績を挙げようと企て、そのために運動を利用している」と非難する人がいるとすれば、それは「親の心、子知らず」でなければ「ためにする曲解」としか考えられません。

さらに、宇井さんは、公害を除去し、開発を阻止する、その意味で否定的な運動の助言者・協力者・啓蒙家として活躍されたばかりでなく、「適性規模」の下水処理施設の設計建設を目指す「活性汚泥」の専門的研究者としても卓越した存在で、この方面でも積極的なお仕事があると聞きます。『セレクション』には、この領域にかかわる随想は収録されていますが、お仕事の内容についてはやや手薄という印象を否めません。どなたか適任の方が編者となって、この領域のお仕事を追い、『セレクション』が編集されてもいいのではないでしょうか。というのも、宇井さん自身は、専門研究者としては、この領域を本願となさっていて、『セレクション』から漏れるのは寂しい、と感じられるかもしれないからです。

 

それはともかく、今回の『セレクション』全三巻を通読して、さまざまな運動体のミニコミへの寄稿や質問への回答も含め、これだけ厖大な報告や訴えを書き残された宇井さんの精力的な活動には、改めて頭が下がります。市民運動と学問研究との狭間に身を置き、「十字砲火」を浴びながらの、現在進行形の対応には、身近な「過同調」者からの「批判」「告発」にたいする気遣いと心労も含め、どれほど神経をすり減らし、疲労も重なったことでしょう。宇井さんは2006年、74歳で亡くなりましたが、日本人男性の平均寿命を待たない早世で、惜しまれてなりません。

そういえば、「第二世代」に属する飯島伸子さんは、宇井さんのお仕事を、もう少しアカデミズム寄りで引き継ぎ、公害問題を社会学の問題として正面から採り上げ、環境社会学会を立ち上げて初代会長となった人ですが、宇井さんの逝去を待たず、2001年に63歳で早世されました。飯島さんの仕事を引き継ぎ、環境社会学会の第二代会長となり、「原子力市民委員会」の座長も引き受けて、この夏『原子力総合年表』を完成させた舩橋晴俊氏は、去る815日、66歳でクモ膜下出血に倒れました。舩橋君は、駒場のゼミ以来、小生ともずっと付き合いがあり、この727日に『原子力総合年表』を届けてくれて話し込み、今後の活躍を期待する、という間柄でした。かれの人柄を偲び、「舩橋晴俊君の急逝を悼む」という一文をしたため、小生のホーム・ページ (http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara) に掲載しました。

その間に、この『セレクション』全三巻が届きました。顧みれば、宇井さんのご逝去からはや八年も経ってしまったのですが、宇井さんの偉業が、飯島さんや舩橋君の後につづく世代に、よりよく引き継がれ、活かされるようにと祈念し、側面から率直な感想や反「批判」も述べ、八年遅れの追悼の記とさせていただきます。

その趣旨で、この一文を、「『宇井純セレクション』全三巻の刊行に寄せて――逝去八年後の追悼」と題し、ホーム・ページに掲載したいと思います。

機会がおありでしたら、編集者の三先生にも、なにとぞよろしくお伝えください。

 

では、なお気候不順の砌、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

 

敬具

2014101

 

折原 浩