『経済と社会』の生成史――3. 17/18 京都シンポジウムに向けて (3)
折原 浩
1.
『経済と社会』生成史の概略
『経済と社会』は、原典A4判で800ぺージ以上の膨大な著作ですが、もともとは、原著者マックス・ヴェーバーが、余人にはなかなか読めない「暗号文字」の悪筆で書き下ろした二束の未定稿
(「旧稿」と「改訂稿」)
を、妻のマリアンネ・ヴェーバーが、難儀して解読し、若い学究メルヒオール・パリュイの協力のもとに、一書に編纂して世に問うた作品です。そこで、かの女の編纂とその問題点を取り上げるまえに、その編纂素材をなした二束の未定稿そのものの成立事情――『経済と社会』の「発生-成立史
(簡略に生成史)
Entstehungsgeschichte」――に触れておかなければなりません。テクスト成立の経緯は、その内容とも密接に関連していて、立ち入るといろいろ問題が出てきます。しかし、そうした問題には後ほど、「旧稿」の内容的解釈にかかわるシュルフター教授との積極的対決のなかで、論及することとし、ここでは概略を押さえておきましょう。
原著者マックス・ヴェーバーは、1905年から、出版社J. C. B.
Mohrの社主パウル・ジーベックに、同社から刊行されていたグスタフ・シェーンベルク編『政治経済学必携Handbuch der politischen Oekonomie』(初版、1882)の抜本的改訂を懇請され、ジーベックと親交を結び、非公式に編集上の相談に応じていました。シェーンベルク没後の1908年秋には、正式に編集の仕事を引き受け、ただし「編者」とは名乗らず、「編集員」もしくは「編集担当」と称して、篇別構成案/執筆分担案を練り、執筆者の選定/執筆依頼の交渉に乗り出したようです。その一方、ほどなくして、自分が分担したパートの執筆にも着手したでしょう。やがて、叢書の表題は、(シェーンベルクの遺族との訴訟に発展した)著作権/印税問題ともからみ、新企画であることを表題によっても明示したほうがよいと(ジーベックが)判断し、『社会経済学綱要Grundriss der Sozialoekonomik』と改められました。
そこで、この『社会経済学綱要』への分担寄稿を発端として成立し、最終的には『経済と社会』として日の目を見る著作――厳密には、分担寄稿の草稿群/テクスト群を素材として(マリアンネ・ヴェーバーが)編纂し、『経済と社会』という表題を冠して世に問うたテクスト集成ないし「一書」――を、生成史の立場からは好んで「ヴェーバーの『社会経済学綱要』寄稿Beitrag zum GdS」、「旧稿」をその「戦前草稿Vorkriegsmanuskript」と呼びます。この呼び方には、「『経済と社会』とは、じつは後に編纂者が付けた表題で、問題なしとしない。原著者自身はじつは、自分の分担寄稿をある時期までしかそう呼んではいない。すでに『経済と社会』という呼称で知れ渡っている以上、便宜上はそれでもよいが、テクストの生成を問題とする見地からは、そうした呼称を表題として無造作に踏襲するわけにはいかない」という批判のニュアンスが籠められています。ヴェーバーやヴェーバー研究者には、「同じことを難しくいう」と非難がしばしば浴びせられますが、「事態を正確に言表しようとするとどうしてもそうなる」という面があることも否めません。もとより、「事態を正確かつ平易明快に言表する」ことが、理想/規範とされなければなりませんが。
さて、遅くとも1910年には開始される分担寄稿執筆は、1914年夏の第一次世界大戦勃発によって中断されるまで、紆余曲折を経ながらも、ともかく継続されます。この時期に執筆され、後にマリアンネ・ヴェーバー編の初版に収録されたテクスト束の総体が、「戦前草稿」「旧稿」です。
その執筆事情については、今日では『全集』の第Ⅱ部「書簡集」が1914年期に相当する巻まで公刊されていて、ジーベックとの往復書簡から、ある程度窺い知ることができます。『社会経済学綱要』全体の篇別構成案/執筆分担案は、1910年5月と1914年6月の二度、作成され、執筆者に送られ、(後者は『社会経済学綱要』の第一回配本のさいに) 発表されています。構成案に類するものとしては、1913年12月30日付けジーベック宛て書簡に、その時点までに書き下ろされたと思われる草稿の題材一覧が簡略に示されています。つぎに、その二構成案と一書簡を引用し、それぞれの読み方や、後に問題となる諸点などに、簡単に触れておきましょう。
2.「1910年構成表」
1910年5月には、「序言」を付した「題材分担案 Stoffverteilungsplan」が、出版社から共同執筆者全員に送られました。『全集』Ⅱ/6: 766-74に収録されています。マックス・ヴェーバーの主たる担当は、下記の Ⅲ. 2 b)、4、および Ⅳ. 1. で、これを後の「1914年構成表」などど比較対照する便宜のために、「1910年構成表」と呼ぶことにしましょう。
Erstes Buch. Wirtschaft und Wirtschaftswissenschaft
Ⅰ. Epochen und Stufen der Wirtschaft.
Ⅱ. Wirtschaftstheorie.
Ⅲ. 経済、自然および社会 Wirtschaft , Natur und
Gesellschaft.
2. b) 経済と人種
4. 経済と社会
a) 経済と法
(1. 原理的関係、2. 今日の状態にいたる発展の諸時期)
b) 経済と社会集団
(家族団体と地域団体、身分と階級、国家)
c) 経済と文化
(史的唯物論の批判)
Ⅳ. 経済学 Wirtschaftswissenschaft
1. 問題設定の目的と論理的性質
Ⅴ. Entwicklungsgang der wirtschafts- und
sozialpolitischen Systeme
und Ideale (フィリッポヴィチ担当)
ヴェーバーは、2. b)「経済と人種」の執筆をロベルト・ミヒェルスに譲りますが、自分では、「自然」のカテゴリーに属する「人種Rasse」を、ゲマインシャフト形成の一契機として相対化し、「種族ethnische Gruppe」概念に止揚し、これを4. b)「経済と社会集団」の系列で取り扱う方向に進みます。この「1910年構成表」の段階では、「種族」がまだ「家族団体と地域団体」の下位カテゴリーとされていたのでしょう。4. b) の小見出しには、独立項目としては姿を現していません。ところが、つぎの「1913年晦日書簡」および「1914年構成表」には、「種族ゲマインシャフト」ないし「種族ゲマインシャフト関係」として登場します。この見出しを、「旧稿」中の「種族ゲマインシャフト関係」章をなすテクストの内容と照合して、当該章は多分1910年期ではなく、それ以降の「執筆期」ないし「執筆局面」に書かれたのであろう、と推定していくわけです。
ところで、この「1910年構成表」に示されている寄稿の重点は、明らかに4. にあり、その全体に、この時点では「経済と社会」という表題が冠せられています。しかも、「経済と社会集団」との関係を問う4. b) のまえに、4. a) として「経済と法」が置かれ、(「旧稿」の「経済と秩序」章に照応する) その (1)「原理的関係」が、概念的導入部をなして、これに (同じく「法社会学」章に対応する) その (2)「今日の状態にいたる発展の諸時期」がつづく、という構成になっています。ところが、「1914年構成表」になると、後出のとおり、(1)「原理的関係」は、概念的導入部中の1. [2] 「経済と法の原理的関係」として残りますが、(2)「今日の状態にいたる発展の諸時期」は、7. [2]「法の発展諸条件」つまり7.「政治ゲマインシャフト」関係の一項目に繰り下げられます。また、「宗教社会学」章は、「1910年構成表」では、4. c)「経済と文化」(史的唯物論批判) の主要部として、ゲマインシャフト系列4. b) とは別立てにされていました。
その他に、適任者がきまるまでの暫定措置も含むと思われますが、「近代国家と資本主義」「資本主義発展にたいする阻害・随伴結果および反動の種類」「いわゆる新中産身分」「労働者階級の本質と社会的状況」などの興味深い諸項目が、かれ
(ないしは、弟アルフレート・ヴェーバーと共同) の分担とされています。
フィリッポヴィチ担当のⅤ.「経済/社会政策体系および理想の発展行程」が、ここではⅢ. (4.「経済と社会」) とは別立てにされている点に止目しておきましょう。
3.「1913年晦日書簡」
やはり構成指標をなす「1913年晦日書簡」は、短いながら重要なので、全文引用しましょう。
「
[全巻冒頭の最重要項目(「1910年構成表」ではⅠ. Epochen
und Stufen der Wirtschaft) を依頼していた]ビュヒャーの『発展段階』稿がじつのところまったく不十分なので、わたしは、主要なゲマインシャフト形式を経済との関連において考察する、ひとつの完結的な理論と叙述を仕上げましたeine geschlossene Theorie und
Darstellung ausgearbeitet habe。それは、家族と家ゲマインシャフトから、『経営』、氏族、種族ゲマインシャフト、および宗教
(これは、全世界のすべての大宗教を包摂する、救済教説および宗教倫理の社会学で、トレルチの仕事が、いまやいっそう簡潔にではあれ、すべての大宗教に拡張されます) を経て、最後にはひとつの包括的な社会学的国家理論と支配理論eine umfassende soziologische Staats-
und Herrschaftslehreにいたるものです。あえていわせてもらえば、これには類例も『範例』もありません。」(MWGA, Ⅱ/8: 449-50)
ここには、共同執筆者しかも最重要視していた寄稿の意外な「不出来Minderleistung」に直面し、学界の先輩格なので「突き返して書きなおしを求める」わけにもいかず、そうした不備/欠落を補填する課題を、自分で引き受け、自分の分担寄稿部分を拡充して、叢書全体の水準は維持しようとする執筆者兼編集者ヴェーバーのスタンスが窺えます。この関係は、テクスト生成史の研究にとって、また、その成果をテクスト編纂そのものに活かすにあたって、とても重要です。というのも、ヴェーバーの『社会経済学綱要』寄稿「戦前草稿」のばあい、一口に「旧稿」といっても、かれが自分の思い通りに一気に書き下ろした、その意味で「統一のある」草稿ではありません。このように、他者の寄稿群との兼ね合いで
(したがって「内生的endogen」にでなく「外生的exogen」にも) 、力点の移動/改訂(増補、ことによるとスペースを開けるための削除)/総じて再編成がなされ、そこからテクストの多層性も生じていると考えられます。生成史的研究にとって、そうした多層性を突き止めることは、きわめて重要です。しかし、さりとて、そうした側面に目を奪われるあまり、「多層性Multischichtigkeit」即「不統一性Unintegriertheit」と速断されてはなりません。まさに自分の寄稿分に引き入れて拡充するのですから、そうした外生的要素の引き受け/編入が、自分の構想にもとづく自稿にはもともとそなわっていた統合性を、必ず破砕ないし毀損する、とまではいいきれないでしょう。むしろ、多層性の確認を踏まえて、ありうべき多層間の統一が、探究されるべきです。テクスト編纂者が、(テクスト外在的な)書簡資料から外生的な多層化要因を探り出し、そこからテクストの多層性を推認するまではよいとしても、かりに、ただそれだけで性急に「統一性」を否認し、多層間にありうべき「統一性」の追求を怠るとすれば、テクスト編纂者としては無責任で、「なんのための生成史研究か」と反問せざるをえません。
つぎに、「1913年晦日書簡」について注目すべきことは、トレルチへの特筆/言及です。ここには、1912年に刊行されたトレルチの大著『キリスト教教会と集団の社会教説』にたいするヴェーバーのスタンスが表明されているようです。すなわち、「宗教性Religiositaet」を重視し、その取り扱いにおいて、一方では「関心の焦点focus of interest」を「教説(ロゴス)から生き方(エートス)に」シフトさせ、他方では、観察の範囲を「キリスト教文化圏」から、東西諸文明を構成する「世界諸宗教」に拡大していくヴェーバーの対抗的スタンスが、ここに簡潔に表明されている、と読めます。
また、「1910年構成表」にはまだ姿を現さなかった「包括的な社会学的支配理論」すなわち「支配の社会学」が登場していることも、注目に値します。
4. 「1914年構成表」
『社会経済学綱要』の第一巻は1914年7月に配本されましたが、その冒頭には、ヴェーバーが執筆した1914年6月2日付け「序言 Vorwort」が置かれ、そのあとに「全巻の構成 Einteilung des Gesamtwerkes」が掲げられていました。このうち、ヴェーバーの分担寄稿は、「第一篇Erstes Buch」、C.
のⅠ.で、つぎの八項目からなっています。これを「1914年構成表」と呼ぶことにしましょう。
Erstes Buch: Grundlagen der Wirtschaft.
A. Wirtschaft und Wirtschaftswissenschaft.
B. Die natuerlichen und technischen Beziehungen der
Wirtschaft
C. 経済と社会 Wirtschaft und Gesellschaft.
Ⅰ. 経済と社会的秩序ならびに社会的勢力 Die Wirtschaft und die
gesellschaftlichen Ordnungen und Maechte.
1.
[1] 社会的秩序という範疇。[2] 経済と法の原理的関係。[3] 団体の経済的関係一般。
2.
家ゲマインシャフト、オイコス、および経営。
3.
近隣団体、氏族、ゲマインデ。
4.
種族的ゲマインシャフト関係。
5.
[1] 宗教ゲマインシャフト [2] 宗教の階級的被制約性; [3] 文化宗教と経済エートス。
6.
市場ゲマインシャフト関係。
7.
[1] 政治団体、[2] 法発展の条件。[3] 身分、階級、党派。[4] 国民。
8.
支配: a) 正当的支配の三類型。b) 政治的支配と教権制的支配。c) 非正当的支配。都市の類型学。d) 近代国家の発展。e) 近代的政党。
Ⅱ. Entwicklungsgang der Wirtschafts- und
sozialpolitischen Systeme und Ideale
[項目中の [n] は、引用の便宜のため、折原が付加]
「1910年題材分担案」と比較しますと、そのⅢ.「経済、自然、および社会」が、この「全篇の構成」では、B.「経済の自然的ならびに技術的諸関係」とC.「経済と社会」とに分けられ、後者がさらに二分されて、Ⅰ. がヴェーバーの担当、Ⅱ. には、(「1910年題材分担案」では独立項目をなしていた) フィリッポヴィチ担当のⅤ.「経済/社会政策体系と理想の発展行程」が、横滑りして入っています。その結果、ヴェーバー担当分の表題は、「1910年題材分担案」の「経済と社会」から、「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」に変更されたことになります。モムゼンは、それに反して、表題として「経済と社会」を採り、典拠に「カテゴリー論文」(1913)冒頭注の表記を挙げています。
ヴェーバー担当の八項目は、1. が概念的導入部、2.~7. が
(「1913年晦日書簡」にいう)「主要なゲマインシャフト形式を経済との関連において考察する、ひとつの完結的な理論と叙述」、8. が
(同じく「1913年晦日書簡」の)「ひとつの包括的な社会学的国家理論と支配理論」にそれぞれ相当する、と見てよいでしょう。それはまた、「旧稿」テクスト本文に見える、つぎの「構成予示」句とも一致します。ちなみに、この一節は、『全集』を含む従来の版では、(「1914年構成表」の2.に照応する)「家ゲマインシャフト」章の冒頭に置かれているのですが、(その1.
[3] に対応する)「概念的導入部 [ゲマインシャフト
(団体) の経済的諸関係一般] 」章の末尾に繰り上げ、「概念的導入部」から「主要なゲマインシャフト形式を経済との関連において考察する」実質的諸章
(「1914年構成表」では2. 以下) への「架橋句」として位置づけたほうが適当と思われます。
「もろもろのゲマインシャフトの需要充足は、特殊な、そのうえしばしばきわめて複雑な作用をともなうので、この一般的考察には属さない。ここでは、個別事象はすべて、もっぱら例示として採り上げる。また、マインシャフトのさまざまな種類をひとつひとつ採り上げ、ゲマインシャフト行為の構造、内容、および手段にしたがって体系的に分類する課題は、一般社会学に属する。ここでは、そうした一般社会学の試みはすべて断念する。むしろ、われわれの考察にとってもっとも重要な種類のゲマインシャフトにかぎって、その本質[知るに値する特性]をさしあたり手短に確定することから始めよう。ここではそのさい、個々の文化内容 (文学・芸術・学問など) にたいする経済の関係ではなく、もっぱら『社会Gesellschaft』にたいす経済の関係を、採り上げて論ずる。そのばあい『社会』とは、人間が形成するゲマインシャフトの一般的な構造形式allgemeine Strukturformen
menschlicher Gemeinschaftenにほかならない。したがって、ゲマインシャフト行為の内容上の方向が考慮されるのは、当の方向が、特定の性質をそなえ、同時に経済にかかわるoekonomisch relevantような、ゲマインシャフトの構造形式を生み出すばあいにかぎられる。これによって与えられる限界 [いかなるゲマインシャフト行為/内容上の方向/経済とかかわる構造形式を、どこまで考察するか、その範囲、したがって叙述の規模] は、徹頭徹尾流動的である。いずれにせよここで取り扱われるのは、きわめて普遍的な種類のいくつかのゲマインシャフトにかぎられる。以下ではまず、そうしたゲマインシャフトの一般的な性格づけがなされ、それらの発展形態には、やがて見るとおり、後段で、『支配』のカテゴリーと関連づけて初めて、多少とも厳密に論及されるであろう。」(MWGA,
Ⅰ/22-1: 114)
ここにいう「ゲマインシャフトの一般的な性格づけ」が「1914年構成表」の2.~7.に、「『支配』のカテゴリーとの関連におけるゲマインシャフトの発展形態への論及」が、同じく8. に照応します。
このように、「テクスト外在的指標」としての「1914年構成表」が、「テクスト内在的指標」としての「構成予示」句と、内容上一致することを確認して、双方の妥当性/信憑性を相互補完的に裏付けることができましょう。『経済と社会』「旧稿」の再構成/再編纂にあたっては、「テクスト外在的指標」(たとえば書簡資料)を偏重することなく、書簡の記述から仮説を立てても、それをたえず「テクスト内在的指標」によって検証していくことが必要かつ重要です。
ちなみに、この一節は、『経済と社会』「旧稿」の構成を予示しているばかりでなく、「旧稿」叙述の目的を簡潔に述べている点でも、きわめて重要です。その目的とは、個別事象を価値関係的「認識対象」として取り上げ、その特性を把握し、因果帰属する「個性化的」「歴史的」「現実科学」的研究ではなく、さりとて
(普通の意味における)「一般社会学」でもなく、個別事象を「例示」「認識手段」として(われわれの考察にとって重要なゲマインシャフトの)「類型概念」「一般経験則」を定立/定式化し、「決疑論」に編成しておこうとする「一般化的」「法則科学」にある、といえるでしょう。ヴェーバーの歴史・社会科学が、「現実科学(歴史科学)」と「法則科学」との緊張のうえに成り立つ、「(原因と結果との)個性的互酬-循環構造」の個別的究明にある、としますと、この「旧稿」系列が、「法則科学」として、一方の柱をなすことになります。
5.「相応に高い統合度」仮説とその状況証拠
さて、冒頭に置かれた1914年6月2日付け「序言」で、ヴェーバーは、この「全巻の構成」中C.に相当する第三巻
(3. Abteilung) 「経済と社会」を、「(同年) 10月中には組版にまわす」と述べ、「1915年のうちには、全巻が刊行されよう」と予告しています (1. Abt.: ⅸ)。とすると、「1914年構成表」は、なにか「未着手の構想」「純然たるプラン」といったものではないはずです。むしろ、四か月後には脱稿して「組版にまわす」予定の、相応の完成域には達した草稿をかたわらに置いて、その章別編成を摘記して公表した「大目次」といえましょう。1914年6月から10月にかけての中間時点に、第一次世界大戦の勃発によって中断を余儀なくされたとしても、その草稿総体つまり「旧稿」は、なるほどすぐそのまま印刷にまわせるまでに仕上がってはおらず、未完部分――「頭と尻尾」、すなわち「1914年構成表」の1. [1] と8.
d), e) ―― を残していたにせよ、完成域には達し、「1914年構成表」に見合う、相応に高い統合度はそなえていたと仮定して差し支えないでしょう。
この点については、さらにいくつかの状況証拠を挙示することができます。
(1)遡って「1913年晦日書簡」でも、ヴェーバーは、「主要なゲマインシャフト形式を経済との関連において考察する、ひとつの完結的な理論と叙述を仕上げました」、「それは、……最後にはひとつの包括的な社会学的国家理論と支配理論にいたるものです」とジーベックに伝え、草稿の「完結」「仕上がり」を示唆していました。もとより、「執筆者は一般に、編集者の督促に応接して、自稿の完成度を高く伝えたがる」という経験則は無視できません。また、1913年末から1914年夏の執筆中断にいたる約半年間に、「晦日書簡」に示唆された「草稿の完結、したがって統合」をいったん破棄し、組み立てなおす必要が生じ、しかもその必要に応えてじっさいに再構成を企て、途上で中断して、未統合の二稿が残された、ということも、ありえます。しかし、そうと断定するには、そうした「破棄→再構成→中断」を窺わせる書簡資料なりが、証拠として提示されなければなりません。
(2) つぎに、ヴェーバーが第一次世界大戦後、「旧稿」の改訂に着手した段階で、戦前の「旧稿」執筆時を回顧した書簡のなかにも、「旧稿」の統合度を示唆する文言が見当たります。たとえば、1920年4月24日付けジーベック宛て書簡では、「当時わたしは、貴台の督促により『経済と社会』を大急ぎで仕上げたfertiggestellt habe (仕上げてあった草稿das
fertig daliegende Manuskriptが、[戦後]
改訂されなければならなかった)」(Mommsen, Wolfgang J., Zur Entstehung von
Max Webers hinterlassenem Werk "Wirtschaft und Gesellschaft",
Discussion Paper Nr. 42/Juni 1999, Europaeisches Zentrum fuer
Staatswissenschaft und Staatspraxis, Berlin: 42) と述懐しているそうです。ここの「仕上げてあった草稿」は、ご覧のとおり、単数形で記されています。
(3) その少しまえ、抜本的な改訂に着手するさい、ジーベックに「改訂稿」の分冊刊行を要望した1919年10月27日付け書簡にも、「浩瀚な旧稿das dicke alte Manuskriptは、根本的に改訂されなければなりません」(Tenbruck,
Friedrich H., Abschied von "Wirtschaft und Gesellschaft", Zeitschrift
fuer die gesamte Staatswissenschaft, Bd. 133, 1977: 732; Schluchter, Max Webers
Beitrag zum "Grundriss der Sozialoekonomik", Koelner Zeitschrift fuer
Soziologie und Sozialpsychologie, Jrg. 50, 1998: 328; Mommsen, 1999: 6) と記されているとのことです。ここでも、「浩瀚な旧稿」を単数形で記しています。ヴェーバー本人は、「旧稿」を「浩瀚」と知りながら、「ひとつの草稿」とみなし、「統合されない、複数の草稿群」とは感得していなかったのです。
『全集』版編纂陣のなかに、テクストの多層性という事実から「統合性」仮説を棄却しようとするかのように、一方では書簡資料を重んじながら、他方では当の書簡に見られるヴェーバー自身の表記も書き換え、「浩瀚な旧稿」を複数扱いする、というようなスタンスが見受けられるとすれば、問題なしとしません。並外れて「浩瀚」であるからには、遺稿のなかに発見された状態については、「複数の(多分章ごとの)束をなして」いて、「束ごとに茶封筒に入れてあったろう」(モムゼン)と想定することもできましょう。しかし、著者自身は、「浩瀚」であることを承知のうえで、「ひとつの草稿」とみなし、書簡にもそう記していたのです。ですから、遺稿における草稿の保存状態にかんする遺稿発見者(別人)の外形的判断や、後々の全集版編纂者(別人)の想定よりも、原著者自身による当時の内面的感得のほうを優先させ、単数の表記を重視するのでなければ、発生史的にも「本末転倒」というほかはありますまい。
ちなみに、最近では、学生/院生の間に、
4外国語とくに英語以外の外国語の修得に苦労しても、原書を読まなければならないのだろうか、翻訳でことをすませるわけにはいかないのか」との疑問を呈する向きがあるようです。この疑問への答えのひとつとして、たとえばこのばあいのように、ある表記が単数か複数かが問題となるとき、邦訳ではその点が曖昧なので、原書にあたって確認しなければなりませんね。
さて、いずれにせよ、この「1914年構成表」は、原著者自身が「旧稿」の完成を公に予告しながら、その完成稿の内容構成/題材配列を大まかながら具体的に表示/公表したものとして、「旧稿」再構成にとってもっとも重要な準拠標(ただし「テクスト外在的」指標)といえましょう。かりにこの準拠標を破棄するとすれば、「旧稿」の再構成は、「舵もなく漂流」し始め、編纂者の恣意に委ねられるおそれなしとしません。それにたいして、「1914年構成表」を(絶対化して「プロクルステースの床」にしつらえるのではなく)「テクスト外在的」指標のなかでは相対的に最重要な規準として尊重すると同時に、たとえば「前後参照指示」「構成予示」句のような「テスクト内在的」指標と相互補完的な検証の関係に置いて、十全に活かそう、というのが、わたくしの再構成方針です。では、これまでの先行編纂者たちは、この「1914年構成表」をどのように取り扱ってきたのでしょうか。ここで簡単に概観しておきましょう。
6. 先行編纂者による「1914年構成表」の取り扱い
(1)「1914年構成表」の妥当性は「旧稿」かぎりで、第一次大戦後に「根本的改訂」がなされるときには失効し、新たな構想にとって代わられる、と見なければなりません。ところで、マリアンネ・ヴェーバーは、「旧稿」と「改訂稿」とを合体して「一書」に仕立てようとしました。そこで、かの女は、『経済と社会』第一版「第二/三部」へのかの女名の「序言」に、「当初のプラン[「1914年構成表」]は、手掛かりにはなったが、本質的な諸点では放棄されていた……ので、章の配列は、編纂者とその協力者[パリュイ]によって決定されなければならなかった」(WuG,
1. Aufl.: ⅲ, 5. Aufl.: ⅶ)と明記し、そのとおりに実行しました。ですから、「それでは、原著者自身は、どのような章配列を考えていたのか」と問うて、原配列を復元する課題そのものは、すでにこのときに提起されていたことになります。しかし、だれもそうした問いは発しませんでした。かの女の「序言」は、(当初には第二分冊の)第一版では「第二/三部」の直前に置かれていましたが、第二版(1925)以降、「第一部」(したがって全巻)
の冒頭に繰り上げられ、しかも「初版への序言」と改題され、全巻の読解指示として読まれるようになりました。
(2) それにたいして、ヴィンケルマンは、マリアンネ・ヴェーバーと同じく「逆転
(配置) 二部構成」の「一書」編纂を前提としながら、「1914年構成表」は「放棄されていない」から、「改訂稿」も含めて「一書」全巻の再構成規準になる、と考え、この方針にしたがって全テクストを再構成/再編纂しました。「改訂稿」=「第一部」の全体が、「1914年構成表」の1. [1]「社会的秩序というカテゴリー」に該当するというのです。まさに、マリアンネ・ヴェーバーとの同位対立に陥ったといえましょう。
(3) F・H・テンブルックは、マリアンネ・ヴェーバー編纂とヴィンケルマン編纂をともに虚構として否認し、「『経済と社会』との訣別」を唱えました。したがって、『社会経済学綱要』寄稿そのものを、「世界宗教の経済倫理」シリーズに比して相対的に貶価し、その再構成にも関心を向けませんでしたし、「1914年構成表」をとりたてて問題にしようとはしませんでした。この点は、ヴェーバーの社会学をも「現実科学」とみて、「法則科学」的契機を貶価するかれの方法論理解と相即的です。マリアンネ・ヴェーバー/ヴィンケルマンの『経済と社会』主著説にたいして、やはり同位対立に陥っているといえましょう。テンブルックの功績については、後段でもう少し詳しく取り上げます。
(4) それにたいして、シュルフターと折原は、テンブルックによる虚構破壊の意義を十分に認め、「逆転
(配置) 二部構成」との「再会」はありえない、としたうえで、テンブルックの「訣別とも訣別」し、『社会経済学綱要』寄稿を
(少なくとも社会学上の主著として) 重視し、原著者の構想に即して再構成する道に踏み出しました。したがって、ともに「1914年構成表」を重視します。しかし、ヴィンケルマンとは異なり、生成史に忠実に、その妥当性を「旧稿」に限定して考えます。このかぎり、シュルフターと折原は、基本線では一致しています。ただ、「1914年構成表」の1. [1]「社会的秩序というカテゴリー」と1913年「カテゴリー論文」との関係については、見解が一致していません。
(5) 同じ『全集』版の編纂者でも、モムゼンは、「1914年構成表」の信憑性と妥当性を「旧稿」についても否認しました。折原は、モムゼン編纂とは、表題問題でも、「カテゴリー論文」の位置づけでも、対立しました。歴史家として、書簡資料を重視するのはよいとしても、①
資料の読み違いや恣意的解釈を強引に押し通すとか、② そこから引き出せる仮説を、テクスト内容に示されているヴェーバーの方法論と社会学理論にかんする的確な理解にもとづいて検証するスタンスに欠けるとか、モムゼン編纂には問題点が目立ちます (詳しくは、拙稿「『合わない頭をつけたトルソ』から『頭のない五肢体部分』へ――『マックス・ヴェーバー全集』(『経済と社会』「旧稿」該当巻)編纂の現状と問題点」、橋本努他編『マックス・ヴェーバーの新世紀――変容する日本社会と認識の展開』、2000、未来社:
296-313;「『マックス・ヴェーバー全集』Ⅰ/22 (『経済と社会』「旧稿」) 編纂の諸問題」、鈴木幸寿他編『歴史社会学とマックス・ヴェーバー』下、2003、理想社:
93-127; "From 'A Torso with a Wrong Head' to 'Five Disjointed Body-Parts without
a Head': A Critique of the Editorial Policy for Max Weber Gesamtausgabe
Ⅰ/22" , Whimster, Sam, et al eds, Max Weber
Studies, vol. 3, 2003: 133-68)。
たとえ、ヴィンケルマンの先行編纂にたいする批判の急先鋒で、第二次世界大戦中に失われた草稿類の捜索には(パリュイのあとを追ってアメリカに調査に出向くほど)熱心であったとしても、ヴィンケルマンに代わって再構成/再編纂を首尾よく達成できる保証はありません。その点、シュルフターは、①
資料の読みにも、② 理論との照合にも、問題なく優れているので、かねてからかれが、編纂陣内でイニシアティヴをとり、「旧稿」の再構成/再編纂を積極的に進めてほしい、と念願し、それに資するようにと「積極的対決」も論争もしてきたのです。
さて、「旧稿」の生成史には、後段でまた、必要に応じて立ち帰ることにして、ここでは編纂史/編纂論争史の概観に移りたいと思います。マリアンネ・ヴェーバー編の初~第三版と、ヨハンネス・ヴィンケルマン編の第四/五/学生版とで、内容構成がどうちがうのか、につきましては、シュルフター/折原著、鈴木宗徳/山口宏訳『「経済と社会」再構成論の新展開』、2000、未来社: 16ぺージと17ぺージとの間に、邦訳書名添記の対照表が織り込まれていますので、必要があれば適宜参照なさってください。
(2006年2月10日記。つづく。なお、シンポジウムのプログラムが、主催者から、京都大学のホームページ http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/forum.htm に正式に掲載されました。)